牙を失ったクリエイターはもう何も作れないのか
一般的には「癒された=幸せ=いいこと」だが
クリエイターにとっては「癒された=何も作れなくなる=怖いこと」という見方がある。
私の青春時代の記憶でいうと浜崎あゆみは、過去の痛みからくる歌詞が強烈なメッセージ性を帯び、多くの共感を呼んでいた。しかし彼女自身が癒されて穏やかになったとき、そ の訴求力が薄れたなどという声があった。それは彼女が悪いのではなく、「痛み」が作品の中核になっていたからではないだろうか。
欠けていることは原動力・魅力になる
欠損は人の原動力・魅力になる。
持っていないものを求めようとする動きが、生み出す力になる。
暗闇のなかほくほく前進で光を掴みにいくような動きだ。
こういう人の作品は、オーディエンスの心をあたためて幸せにするというより、動か・揺さぶるということを引き起こす。
癒された人は何も作れないのか?
「じゃあ、癒されたら終わりなの? 幸せになったら表現できないの?」
そうではない。
次の段階が存在する。
癒された人にしか作れないものがある。
傷のある人の作品が「刺さる」のに対し癒された人の作品は「包む」。
単なる方向性の違いだ。
あなたの作品はどっちタイプか
これは「どっちがいいか」ではない。
「どっちが自分に合ってるか」「自分は人生のどの段階にいるか」による。
欠けたまま、痛みを原動力にリアルさで刺していくタイプ。
癒されたうえで、希望ややすらぎを伝えるタイプ。
どちらでも作品はできる。
ただし、温度が違う。
前者はアイスコーヒーで、後者はホットコーヒーという違いだ。
オーディエンスの状況(人生の段階)により好みが分かれる。
なぜ作るのか
クリエイターの創造の出どころが「欠落」なのか「癒し」なのかは、人生の段階による。
今自分は
元気だから作るのか? 癒されたから作るのか? 欠けてるから作るのか? 苦しいから作るのか?
これを考えると、クリエイターとしての強みが見えてくると思う。
「私は癒されてもなお、作るだろうか?」
欠落を原動力に、尖りまくって刺さる作品を作ってる人は癒されてしまったら訴求力はなくなるかもしれない。
それに伴って 何も作りたくなくなる空白の時期もくるかもしれない。
つまりアイスコーヒーがぬるくなった状態だ。
しかしぬるくなったからこのクリエイターはおしまい、なのではない。そんなはずはない。
再び氷を入れてキンキンに冷ましにいくのか、今度は加熱してホットにするのか、それはクリエイター次第だ。
冷ましたいか、あたためたいか。
「どうしたいか」の願望が湧いてきたときにまた作り始めることができる。
あなたが力を失ったのではない。


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