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しばらく更新ができていませんでした。

理由は、母を見送っていたためです。

3年4ヶ月の闘病でしたが、
2025年末までは、痛くも痒くもなかったようでした。
しかし2026年に入って急激に悪化し、鬼籍に入りました。

2023年5月、母の検診画像を見て
「はあ?死ぬじゃん」とすぐにわかった。

5年生きる確率が10%以下か。

どうしても医者としての常識が私の中にあるため、
「ううん!その数%に入れるかもしれないじゃん!5年生きるかもしれないじゃん!」
とは思いませんでした。

今年母は死ぬかもしれない。と常に思っていた。

ということで今回は。

いつか来る別れのために、自分の愛し方を知っておけ
という話をします。

親や子だけでなく、後悔しないパートナーシップの話でもあります。

「愛情表現」というのは本当に人それぞれ違うということを、あなたは知っているだろうか。

イメージしやすい愛情表現というのは
「ありがとう、大好きだよ」と伝えるといったことが真っ先に浮かぶだろう。

だが、

ただ隣にいるだけ
さえぎらずに話を聞く
差し入れをする
相手のために時間をつくる
料理を作る
金を払う
旅行に連れていく
口を出さずに見守る
手紙を書く
記録を残す
大学に受かる

こういったことも、愛情表現だ。
「あなたを大切に思っています」という同じ気持ちでも、出てくる行動は人によって全然違う。

そして、あなたに似合う行動が必ずあるはずなのだ。

ゴルゴ13のような仕事人の場合でも
「ありがとう、大好きだよ」と言うことが、ベストな愛情表現なのかと言われると
かなりズレているように感じないだろうか。

つまり
身近な人との別れが近いと分かったとき、
「もう十分やった。あれ以上は私にはできなかった」と思えるには、
「自分は、どうやって人を愛する人なのか」をあらかじめ知っておくことが重要なのだ。

自分の愛情表現の方法がわかったとして。

その「愛し方」に満足しているのは自分だけじゃないのか?
本人は本当にそれを喜んでいるのか?

この問いは必要だ。

なぜなら、
「自分がしてあげたいこと」と「相手がしてほしいこと」は、同じとは限らない。

例えば、私の場合
愛情表現はさまざまあるが、
一つには「コンテンツを作りたがる」というものがある。

「ありがとう」と言うことよりも、
思い出を動画にしたり、楽曲にすること。
これを「自分にしかできないこと」と価値を感じており、やれなかったら「ベストをつくせなかった…」と後悔してしまう。

本題に戻す。

「自分がしてあげたいこと」と「相手がしてほしいこと」は、同じとは限らない。

私はコンテンツを作りたい。
でも母は、そんなことより辛さを聞いてほしかったかもしれない。

だから、
「私はどう愛したいのか」を知るだけでは足りない。

同時に、
「この人は、どう愛されたがっているんだろう」も考えないといけない。
本人に聞けるのならそれがいいが。

自分の愛情表現を押しつけるのではなく、相手が受け取りたいものも与える。
その2方向が必要なのだと思う。

そしてそもそも、
「後悔しないようにしておきたい」という発想そのものが、こちら側の都合だ。

しかも、どれだけやったところで、
「あれもしてあげればよかった」は出てくるわけで。

だから目指すのは、後悔ゼロではない。

未来に、「私は、出し惜しみしなかったぞ」と思えることではないだろうか。

そもそもこんなことは
別れが近いと分かってから、慌てて考えることではない。

だから、自分の愛し方を知ることについての大切さを述べた。

それに加えて、

普段から会いたい人には会い、
伝えたいことはすぐに伝える。

これは誠実さのひとつであり、
そういった誠実さがあるかどうかの話でもある。

もちろん、現実にはそんな完璧にはできない。
疲れている日もあるわけで、そんな日は意思をもってサボる。

「ベストを尽くす」とは、
頑張りすぎて燃え尽きることではない。
サボること・やらないことに、意思をもつことだ。

そうしてベストを尽くした人だけが
「まあ、私にできることはこれ以上ないね」
と思うことができる。

と、ここまでは理想だ。

じゃあ、別れの準備ができなかった人はもうダメなのか?というと、
実はそうではない。
私自身、父を突然亡くしている。

私は、亡くなってからでも、全然間に合うと思っている。

一体「何が」間に合うのか?

それは、「その人を大切に思うこと」は、間に合うと言いたい。
亡くなってしまっても、その人を愛することまでできなくなってしまったわけではないのだ。

その人のことをもっと知ろうとすることもできる。
その人について、語り合うこともできる。
その人のイズムを受け継ぐこともできる。

その人との関係を、自分の中で続けることは、可能だ。

大切な人を失う「悲しみ」と、「もっとできたのではないか」という「苦しみ」は、区別したい。

苦しみとは、後悔と言い換えられる。
なにもしなかった過去の自分に、自分自身が納得できない。それが苦しい。

では、どうすれば納得できるのか。

「あなたは十分頑張ったよ」
「お父さんは、きっと幸せだったよ」
と言われても、そうだったと自分で思えなければ、納得はできない。

納得感を得たいのであれば、自分が本当にそう思えるところまで、思考するしかない。

では、何をすれば納得できるのか。

一つ挙げるとすれば、
「この現実でなければ、起こり得なかったよいこと」を探す姿勢を持つことだ。

これは、すぐに見つからないと思ったほうがいい。
なんなら一生分からないかもしれない。

でも、探そうとする「姿勢」さえあればいいのだ。

なぜか。
人間を苦しめるのは、苦しみそのものよりも、その苦しみに意味を見いだせないことだ。
だからこそ、「この経験にも、いつか意味を見つけられるかもしれない」と思えること自体に意味があるのだ。
そこで大事なのが、「探そうとする姿勢」だ。

私は、ここが大きな分かれ道だと思う。

「この現実だからこそ得られるものが、きっとあるはずだ」と思って生きるのか。
「こんなことが起こって、ええわけないやん」と思って生きるのか。

「この現実でよかったこと」というのは
過去に見つかるものもあれば、未来に発生するパターンもある。

例えば、
亡くなった人との繋がりを、未来にあなたが本にしたとしよう。
その本を通じて、一生の友に出会うかもしれない。
作家の道が拓けるかもしれない。

このように
未来にあなたが行動することで、「よかったこと」は創造できる。

とはいえ得られたものは、失ったものの埋め合わせにはならない。
その証拠に、悲しみと喜びを同時に感じられる心を、私たちは持っている。
しかしだからこそ悲しみは、それ(よかったこと)を探すモチベーションになるのかもしれない。

納得を得るには時間がかかる。
考え続ける必要もある。
何かをやってみる必要もある。

それでも
「この現実にも、まだ自分の知らない価値があるはずだ」と思って生きる人にしか、納得感という恩恵はやってこない。

だから、大切な人が亡くなった後でも、まだ間に合うと信じてもいいと思うのだ。

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