なぜ失恋をした人は魅力的なのか―失恋が与える使命
失恋は悲劇である
人は、大きな悲劇を経験すると、その出来事から人生の使命を見出すことがある。
『はだしのゲン』の作者・中沢啓治氏は、被爆体験を一生かけて伝え続けると発言した。
池袋暴走事故で妻子を亡くした松永拓也氏は、交通事故のない社会を目指して活動を続けている。
こうした人々を見ると、「悲劇は人生に使命を与える」と感じる。
では、失恋はどうだろうか。
失恋も人生を揺るがす悲劇である。しかし、多くの場合、それは使命にはならない。
むしろ人を苦しめ、その後の人生まで狭めてしまうことが少なくない。
なぜ、こうした違いが生まれるのだろうか。
そして失恋した者の使命とは、どんな形なのだろうか。
戦争や交通事故には「敵」がいる
戦争や交通事故には、比較的はっきりとした「敵」が存在する。
戦争であれば戦争や核兵器であり、交通事故であれば危険運転や安全意識の欠如が敵となる。
だからこそ、
「二度と同じ悲劇を起こしてはいけない」という使命が生まれる。
ところが、失恋は違う。
戦争や交通事故とは違い、倒すべき敵がいない。
失恋をなくそうと思えば、恋愛そのものをなくすしかないわけだが、それは不可能である。
よって「失恋をなくそう」という使命は成立しない。
失恋は「二度と恋愛をしない」誓いを生む
失恋を経験すると、人は別の方向へ進みやすい。
「傷つきたくないからもう二度と恋愛はしない」と心に強く誓うことになりやすいのだ。
すると、
人を信用しない
本音を言わない
親密な関係を恐れる
という方向へ向かってしまう。
交通事故を経験した人が「安全運転を心がけよう」と考えるのとは逆で、
失恋の場合は、「恋愛をしなければ傷つかない」という発想になりやすい。
つまり、
世界を安全にするのではなく、世界を狭くする動きが生まれてしまいやすい。
では、失恋した人にとっては何が使命になるのか?
ここで考え方を変える必要がある。
失恋そのものをなくすことは使命にならない。
しかし、失恋によって得られるものは存在する。
つまり、失恋によって身についた力で、使命がかたちづくられることは十分あり得る。
傷ついた人だけが持てる力
実は、傷ついた人だからこそ、育てられる力がある。
それは、
感受性である。
傷つきの当事者になると、同じ経験をした人の痛みがわかるようになる。
これは頭でわかるものではなく、「経験した人にしかわからない」としか言いようがない性質のものだ。
傷つきを経験すると、
表情の裏側が見えるようになる
感情の微妙な違いが分かるようになる
悲しいの反対側の感情(嬉しい)が感じられる
感情を味わい尽くすと何が起こるかわかる
このように、人間の感情に対する感受性が上がっていく。
そうすると
同じ小説を読んでも違って見える。
同じ映画でも涙を流す場面が変わる。
今まで理解できなかった歌詞が突然心に入ってくる。
このように、感情表現に対する読解力が飛躍的に上がる。
人の言葉を文字通りに受け取るだけではなく、その奥にある葛藤や、相反する感情まで読めるようになる。
これは一種の知性である。
つまり、失恋によって人は少し頭が良くなるのだ。
そしてこの感情に対する高い読解力を、日常、仕事、他の人間関係で使えるようになる。
この複雑な感情を読み取れる人は、人間としての魅力が増していく。
良い例えかわからないが、
堀江貴文氏、メンタリストDaiGo氏、ひろゆき氏などは、少なくとも公の発言では、ときに「人の気持ちがわからない人」という印象を与えることがある。
しかし、たまに彼らが弱者に寄り添ったり、優しい言葉をかけたりする場面を見ることは実際ある。
そしてその瞬間のほうが、ずっと魅力的に見える。「弱者に寄り添って強者を論破する時のひろゆきは憧れる」といったコメントも見られる。
スペックだけでは、人の魅力は完成しない。
相手が何を感じているのかを想像できること。痛みを痛みとして受け取れること。そこには、スペックとは別の人間的な深みがある。
失恋によって育つ感受性とは、まさにこの力である。
傷つくだけでは不十分
ただし、この感受性は、傷つけば誰でも得られるものではない。
感受性が豊かになったオマケで人生のステージが上がるのは、
傷から逃げなかった人だけである。
つまりそれは、傷ついた経験を、ある程度「完了」させることだ。
完了とは
「あれは私を傷つけた恋だった」ではなく、「私はあれほど誰かを愛した」と、その経験を前向きに解釈し直せるようになることである。
そうして初めて、失恋は振り返ることのできる経験になる。
そして経験になった傷だからこそ、そこから得た感受性や知恵を、信念や使命へ変えていくことができるのである。
苦しみそのものには価値はない。
しかし、「苦しみから何を学んだか」に価値が生まれるのだ。

気づかないといけないこと
失恋をした人が、自力で実感しないといけないことがある。
それは、
傷つくことはあるが、それによって私の人生が破壊されるわけではない。
ということだ。
人生終わったと思った。
それでも、
仕事があり、朝が来て、予定があり、街は動いている。
私以外は、変わらず動いている。
その「自分以外はいつも通り動いている」という日常の引力に、救われることがある。
悲劇が起きても、この引力の強さによって、人は少しずつ日常へ連れ戻されていく。
とはいえ、失恋による心的ストレスで仕事ができなくなったり、体調を崩したり、深刻な精神状態に陥ったりすることはある。そうした場合には、周囲や専門家の助けが必要である。
それでも、
「この人を失ったら私の人生は終わりだ」と感じるときに起こっていることは、自分がその恋に、人生そのものを左右するほど大きな力を与えてしまっているだけなのだ。
悲しいかな、私たちはいつかこのことを認めなければならない。
苦しい理由は、相手を失ったからだけではない。
「この恋は私の人生を決定するほど特別なものだった」という意味づけを手放すこと自体も、また苦しいのである。
失恋そのものの悲しみと、失恋の特別性を手放す悲しみ。
この二つが混在していることを、自力で見抜けるか。
これを見抜けた瞬間に、人は苦しみから初めて立ち直りはじめる。
そのあとで、
「傷つかない人生を作るのではなく、傷つく前提で人生を生きる」という、
こちらの道が、見えるようになる。
そしていざ傷ついた時には、またしても自分の人生を狭める思考に逃げそうになるが、次からはそれをしないことだ。
失恋が与える使命とは
失恋によって生まれた傷をそのまま、「もう二度と恋愛はしない」という誓いに変えてしまえば、人生はどんどん狭くなる。
しかし、その傷から人間を理解する力や、感情を感じる力、他者を支える力を育てることができれば、失恋は人生の転機となってくれる。
例えば、
傷ついても、なお人を愛せる自分になること
傷ついた人が、自分を嫌いにならずに済むよう支えること
そんな使命は成立する。
事故や戦争のように、「二度とこの悲劇を起こさない」ではなく、「この悲劇を逃げずに感じられる自分になる」という、逆方向への転換が必要なのだ。
そして、その結果として得られるものが、
「もう傷つかない強さ」ではなく、「傷つくことができ、それでも生きていける強さ」なのだと思う。
失恋によって得た力を、まずは自分の人生へ返す。
以前より深く感じ、以前より深く人を理解し、それでもまた誰かを愛してみる。
そしていつか、その力を誰かへ返す。
傷ついた人を支えるのでもいい。作品にするのでもいい。仕事に生かすのでもいい。
そんなふうにして悲劇から得たものを、自分の人生へ、そして誰かの人生へ返していく。
それが失恋した者に生まれ得る使命だと、私は結論づけている。
だからあなたには、「もう恋なんてしない」なんて言わないでいただきたい。絶対。


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